たまにはゆっくりしてこいよ、と近藤から渡されたのは、江戸の街に最近出来た、ある温泉施設の無料券だった。
桂が獄門島から脱走して以降、真選組はこれまで以上に躍起になってそのテロリストを探していた。だが桂に繋がる手掛かり一つ見つけられず、連日のハードな仕事に真選組の士気も落ち目なっている。
一度仕切りなおそう、そう言って近藤は隊士達に一日臨時休暇をやることを通達した。土方は初め反対したが、隊士達の疲れがピークになっていることも一方では承知しており、こういう局面での局長の厚意が隊士達の忠誠心を高めることになることも知っている。
かくして真選組に一日特別休暇なるものが叶ったのだが、近藤は『お前が残ってると他の奴らが休みにくい』と土方に無料券を渡し、屯所から半ば追い立てるようにして見送った。
新しくできたばかりの露天風呂は檜の香りが強く、なかなかにいい作りをしている。土方は久しぶりにくつろいだ気分を味わいながら、ゆっくりとその湯舟に身を沈めた。
ちょうど食事時と時間帯が重なっているせいか、見える人影はまばらだ。街中にできたにも関わらずその露天風呂は広くゆったりとしていて、なかなか趣き深い。
湯はとろりとした軟水で、疲れた身体の隅々に染み渡っていく。上がる湯気は豊かに湯殿を覆っており、他人の顔が見えにくいのも好ましい所だ。
あー生き返る、そう呟いて息を吐いた次の瞬間、風に吹かれた湯気の向こうに白いうなじと黒い纏め髪を見つけた土方の心臓は瞬時に跳ね上がった。
(女...!?)
ここは女湯だっただろうかと慌てて脱衣所まで駆け戻り、あたふたと着物を身につける。だが辺りをよく見回すと、ヒゲをやたら丁寧に剃っていたり化粧水を丹念にパッティングしていたり腰がくねくねしたりしているのが妙ではあるが、そこにいるのはまぎれもなく汚いおっさんばかりだった。
(なんだ...俺が間違えたかと思ったじゃねェかよ)
土方はほっと胸を撫で下ろし、次にさてどうしようかと腕を組んで考え始める。
湯舟の中にいた女に、恥をかかせないようここは男湯だと伝える必要がある。しどけない姿が他の野郎に見つかると相手によってはその場でどうにかされてしまうかもしれない。犯罪は未然に防ぐべし、そう決意した土方は浴衣とバスタオルを持ち、自分は着物を身に付けたまま再び湯舟の方へと向かった。
滑る床に気を付けながらそっと湯舟に近づくと、先刻の女が浸かっているのが見える。こちらへ背を向けてはいるが、アップにした黒髪と後れ毛の残る白いうなじの華奢なラインが美しく、非常に見る者の目を惹き付けた。
さてどうやって声をかければよいものか、いざとなると土方は戸惑った。ここ男湯ですよ、といきなり言うのも無粋であるし、何より相手に恥ずかしい思いをさせてしまう。
どう言うべきか迷いつつ、うなじから背への白いラインを見つめるうちに、なぜか鼓動が高くなっていくのを感じる。何を不埒な、俺は警官だぞと気を引き締め、土方は意を決して口を開いた。
「オイ、姐さんよ...。悪いこた言わねェ、これを着て早く出な」
なるべく視線を逸らしながら、ぶっきらぼうにタオルと浴衣を差し出す。ややあってちゃぽんと振り向く音がし、怪訝な声が返ってきた。
「姐さんじゃない、桂だ」
瞬間強い風が吹いて、湯気がさあっと引いていく。
見返り美人、という言葉がまず頭に浮かび、それから回路が繋がって、その美人が真選組を悩ますテロリストだと認識する頃には、桂は湯舟を飛び出し土方の手から浴衣を奪い取っていた。
「...かっ...かーつらァァァァ!!!」
はっと我に返った土方は慌てて桂の後を追う。桂は走りながらばたばたと浴衣を羽織り、脱衣所に飛び込んだ。
「芋侍め、温泉とは人々が癒しを求めて訪れる場所だ。大声を出すのは無粋だぞ」
「うるせェ!大人しくお縄を頂戴しやがれ!」
土方は咄嗟に辺りを見回して、隅に置いてあった非常用ロープを掴み走り出す。
「フン、田舎者は言う台詞もありきたりだな」
走りながら小馬鹿にした口調を向けたその瞬間、濡れた足がぬるりと滑り、桂の体勢が一瞬傾く。
その隙を土方は見逃さなかった。手にした縄を回し投げ、桂の細い身体をぐいと捉える。そのまま力任せに引き寄せて、長年追っていた身体をついに組み伏せた。
「さァ、観念しろや、桂...」
両手首を床に押さえ付け、桂に覆いかぶさった土方は、上がった呼吸を落ち着けようと改めて目前のテロリストを見る。
身体を拭かずに羽織った浴衣はすっかり水気を含み、肌が透けるように張り付いている。濡れ髪は黒く艶やかに纏わり付き、白い肌とのコントラストが美しい。走ったせいで弾む息、ほんのり上気した湯上りの身体。
「じろじろ見るな。躾のなっていない犬め」
嫌悪感を露わにした桂の言葉に、土方はぼうっとなりかけていた意識を取り戻した。軽く頭を振り、懐から手錠を取り出す。
「さァ今度こそ年貢の納め時だぜ、党首様よ」
言いながら桂の両手を頭上に纏め、手錠をかけようとした瞬間、桂の黒く濡れた眼と視線がぶつかった。
こちらを強く強く射抜く光。土方は合わせた目を逸らせずに、全身が金縛りにあったように動けなくなる。
心の奥まで入り込んでくるような瞳。
それは、魔力、とでも呼ぶべきかのような。
「...うぐぅっ!」
次の瞬間、土方は身体ごと弾き飛ばされていた。一瞬何が起きたのか分からずに頭がクラクラとする。
「油断したな、芋侍!」
桂は縄に縛られたまま駆け出し、廊下の奥に消えていく。
「まっ...待てェ!今日という今日はもう逃がさねェぞ!」
土方は濡れた床に足を取られつつ、急いで桂の後を追った。
「銀時!一大事だ!」
温泉宿の一角、銀時がのんびり寝そべってジャンプを読んでいるところへ、濡れ浴衣を纏った桂が縄に縛られたまま飛び込んでくる。
「...それ、どんなSMプレイ?」
「馬鹿者!土方が来ている、早く縄を解け!」
「はアァァァ!?」
こんなところで聞くと思っていなかった名前に銀時は露骨に眉を顰める。
「お前、どんだけ運が悪いの?」
「言ってる場合か、早くしろ!」
ハイハイとめんどくさそうに銀時が縄に手をやった瞬間、扉がものすごい勢いで叩かれた。
「御用改めである!」
扉が微かに濡れているのを見つけ、躊躇わずに踏み込んだその部屋は、昼間から障子を閉めているせいで薄暗い。
突然の暗さに一瞬鳥目になり、慌てて何度か瞬かせ部屋の奥へと目を凝らす。
すると土方の目に飛び込んできたのは、上半身裸の銀髪の男と、その下に組み伏せられている髪の長い女だった。
(うっ...!)
見慣れぬ淫らな光景に、土方は一瞬たじろぐ。だが次の瞬間、視線は組み敷かれた女の姿態に奪われていた。
商売女のそれと分かる派手な着物は乱れに乱れ、白い肩が露わになっている。肌蹴られた裾からは白い腿がしなやかに覗き、長い髪は乱れ、汗ばんだ肌に濡れて纏わりついている。目元は隠れてよく見えないが、半開きの口唇はひどく扇情的だった。
男に圧し掛かられたその様は昼間から目にするには大層際どく、土方は思わず喉をごくりと鳴らす。
すると女を組み敷いている銀髪の男が、ゆったりと獰猛な目をこちらに向けた。
「...何かと思えば、多串君...。今、取り込み中なんですけど...?」
見れば男はよく見知った顔で、情事の邪魔をされた腹立ちだろうか、いつにない威圧感に土方は思わず気圧されるのを感じる。
「あ、いや...邪魔するつもりはねェ。おい万事屋、ここに桂の野郎が来なかったか」
「え、何?だから今取り込み中なんだってば...、ねぇ?」
銀時が問うようにくいと動かした手に、
「っン...っ」
組み敷かれた身体から小さな喘ぎが漏れた。
その声の響きに、土方はカァッと身体が熱くなる。元々色事にはあまり詳しい方ではない。まだ日の高いうちから見せ付けられた痴態に、土方はひどく落ち着かない気分にさせられた。
「...ッてめぇ、昼間っから堂々と...」
気恥ずかしさを隠そうと低い声で唸ってみるが、
「うるせェ。分かったらとっとと出てけ」
獰猛さを増した銀時の睨みに、土方の背筋に冷たいものが走る。
「...桂、は、来てねぇんだな?」
念押しの台詞を口にするが、その声は掠れている。認めたくはないが、自分は完全に気後れしている、と感じた。
部屋を見回した限りでは、そこに桂の乱入した形跡はない。どこか腑に落ちないものを感じつつも、土方は半ば逃げるようにしてその部屋を後にした。
「まったく何やってんだオメーはよ!何お約束みてーに真選組と鉢合わせてんだ、バカかバカだろお前」
「黙れ不可抗力だ!そもそも幕府の犬が温泉などにいるのが悪い!奴らがちゃんと働いていない証拠だ、訴えてやる」
「訴えられんのはお前のほうですから!だーかーらオカマの慰安旅行になんか来たくなかったんだよ俺は、お前と温泉なんて絶対騒動が起きるに決まってんもんよ!」
「無礼者め、せっかく西郷殿に呼んでもらったのにそんな言い草があるか!オカマだって慰安旅行したいときもあるさ!」
「あるさ!じゃねぇ!そもそも来たくて来たんじゃねーよ、青ひげに囲まれた日にゃあ慰安どころか寿命が縮まるわ」
「誰が青ひげだってェ?」
土方が去った後、わあわあと言い合う2人の背後でがらりと開けられた扉とドスの効いた声に、銀時と桂は一瞬肩を竦ませる。
「いえ...なんでもないっす、あはは」
「ヅラ子にパー子、アンタ達まだ支度できてないのかい。大広間に食事の用意ができてるよ、他の皆も揃ってる。アンタ達もさっさと着替えてきな!」
「「ハーイ、すいまっせーん」」
どすどすと無骨な足音を立てて去るマドマーゼルを見送り、銀時と桂はやれやれと言うように目を見合わせた。
「全く...せっかく温泉に来たというのに、どうにも落ち着かん日だな」
「オメーが一番落ち着いてねぇんだよバカ!何だって土方に縄なんかかけられてんだよ、うっかり
にもほどがあんぞ」
「仕方がなかろう!人間、温泉に浸かっているときは誰だって油断するものだ」
「仕方なくないですー!......って、お前、今なんつった」
「え?だから仕方がなかろうと...」
「その後。オメーまさか、風呂ン中で土方に見つかったんじゃ」
「そうだが?...って貴様、何をする!」
桂が応えるや否や、銀時は突然桂の腕をぐいと掴みそのまま押し倒した。
勢いに任せ無言で口唇を奪い、荒々しく吸い上げる。
何度もしつこく舌を絡め、銀時の心情が少し落ち着く頃には、桂の口唇は真っ赤に染まっていた。
「何だ、急に...!」
息を弾ませながら、桂が怒りの視線を向けてくる。
「イヤ...、何かちょっと、ムカついたから」
「何だそれは!」
離せ遅れると西郷殿に怒られるぞ、とじたばたする桂をどうにか押さえ付けながら、湯舟の中で土方が見たであろう光景や先刻中2顔でガン見されたことを思うと、またムラムラと腹が立ってくる。
銀時は自分の所有権を確認するべく、まず白い首筋から、噛み付くように口唇を押し付けていった。
その日結局桂は見つからず、真選組はまたも失態を晒す形となった。
屯所に戻った土方はイライラと煙草をふかす。その脳裏には昼間見た諸々が鮮明に焼きついて離れない。
湯舟に浸かっていた桂の白いうなじ、湯気を巻くように駆けた身体の細さ、濡れた肌に貼り付いて透ける浴衣と艶めいた濡れ髪。
クソッ何てもんを思い出しやがんだと、土方は吸いさしをぐいと灰皿に押し付けて新しい一本に火を点けた。
しかし桂がどうやって逃走したのか、そこが今ひとつ分からない。確かにあのとき、追い込んだと思ったのに。
(あの女......、まさか桂ってことは...)
薄暗い部屋で見た淫らな姿と湯気の中で見た白いうなじとが重なり、土方はカァッと頬が火照るのを感じた。
(イヤイヤイヤイヤ、有り得ねェ!そんなことがあってたまるか!!)
邪念を払うように頭をぶんぶんと振り、土方はぐいと拳を握る。
(クソ...あの野郎、いつか絶対俺の手で捕まえてやるからな!!!)
新たに決意して天を仰ぐ。穏やかな光を湛えた細い月が、やれるものならやってみろと笑っているように見えた。
PR