たぶん階段を登る音に出てきたのだろう、カラリと戸をあけた今日の神楽ちゃんは、いつもよりもどこかさびしそうな顔に見えた。
「...なんだ、シコッ八かヨ。出迎えて損したアル」
「神楽ちゃん、会った途端にそれはないんじゃない?」
軽く突っ込みはしたけれど、神楽ちゃんの声にはいつもの覇気がない。あれ、どうしたんだろ。
「姉上から、おやつ預かってきたんだ。お茶でも淹れるよ」
僕は破壊的に黒い卵の塊を神楽ちゃんに手渡してから、ゆっくりと台所の方へ向かった。
ちらりと居間のテレビを見るとそこには、母子の再会をテーマにした古いアニメの再放送。
ああ、うん、そうだね。
僕は何も言わず、やかんに水を汲み、そっと火にかける。銀さんはバイクがなかったからどこかへ出かけてるんだろうな。
「新八ィ、私は茶柱の立った茶が飲みたいネ。茶柱立てるまでこっち来んなヨ」
居間から聞こえてくるその声は、ほんの少し語尾が震えている。
気がつくとテレビは消されていたけれど、僕には神楽ちゃんの気持ちが、それこそ手に取るようにわかった。
「うん、でも僕、基本的にアンラッキーだからね。茶柱なんて立つかなぁ...」
茶棚から湯呑みと急須と茶葉を出し、ゆっくりと盆に並べながら、僕はどうすれば茶柱が立つか考え始める。
または、どうすれば神楽ちゃんが笑顔になるか。
ソファで小さく膝を抱えている神楽ちゃんは、きっと今、自分の記憶の奥隅にある温かな人の面影を、必死で辿っていることだろう。そんなときは少しだけ、誰にも邪魔してほしくないものだ。
普段はほとんど意識しなくても、ふとした瞬間に、どうしようもない大きさで胸を締める憧憬。
それは僕だって、よく知っているから。
シュン、シュン、
お湯の沸く音がして、知らずのうちにぼんやりしていた僕は現実に引き戻された。
気がつくとやかんからはずいぶん湯気が立っている。少し蓋をずらして火を弱めて、茶葉を急須にひとすくい。
ふうと小さく息をつくと、玄関からピンポーンという音がした。
「こんにちはー。ぎんときくんいますか」
呼び鈴とともに聞こえてきた、しごく真面目なその声。居間にいた神楽ちゃんは、ふわりと引き寄せられるように玄関に向かった。
その顔はさっきよりほぐれていて、僕もなぜか、少しほっとした気分になる。
「ヅラァ、銀ちゃんは留守アルよ。代わりに私が直々に可愛がってやるネ」
「それは光栄だな、リーダー。茶菓子を持参した、これでひとつよろしく頼む」
相変わらず抜けた会話を交わしながら、その人は家の中に入ってくる。神楽ちゃんはうれしそうに袖を引き、仔犬のようにじゃれついていた。
「こんにちは、桂さん。ちょうどお茶が入るところです、ゆっくりしてって下さい」
「ああこんにちは、新八君。お言葉に甘えて、上がらせてもらった」
神楽ちゃんをぶらさげたまま桂さんは台所へやってきて、やわらかな声で僕に微笑みかけた。
それを見た僕のみぞおちのあたりに、じわり、何か温かな安心感が広がる。竦んでいた肩の力がすうと抜けるような、なんだろ、不思議なこの感じ。
「イエロー、今日の修行は髪結いネ。私の髪を綺麗に結いなおすヨロシ」
「ルージャ、リーダー」
居間から聞こえてくるやりとりに苦笑しつつ、僕はやかんの火を止めて急須にそっと湯を注ぐ。ふわりと広がる、茶葉の匂い。
湯呑みをひとつ増やして、伏せたまま盆にのせ運ぶ。そこには髪を解いた神楽ちゃんと、その髪を丁寧に梳いている桂さんの姿があった。
目を閉じている神楽ちゃんの口元は少しほころんでいて、どことなくうれしそう。
いいな、ちょっと、何か。
「ああ新八君、いつもかたじけないな。せめて注ぎ分けは俺がやろう、座ってくれ」
髪を梳く手をそっと止め、櫛を脇に置いて、桂さんは盆の急須に手を伸ばした。
「え、あ、すいません」
僕は促されるままにソファに座り、桂さんが3つの湯呑みに丁寧に茶を注いでいく様子を眺める。
床に膝を付き、手首をしならせてゆっくりとお茶を淹れるその姿は、なぜか僕の胸にひどく温かな感覚を呼び起こした。
形として覚えているわけではないけれど、このじんわりとした気持ちはきっと、僕がひどく幼かった頃に得たものなのだろう。
「ハイ、どうぞ。熱いぞ、火傷せんようにな」
「あ、どうも」
両手で湯呑みを差し出す桂さんからそれを受け取って、ふわりと温かな空気が僕を包む。
あ、この感じ、何だか泣きたくなるほどに、どうしてだろ、懐かしい。
「ヅラァ、はやくするネ」
「ああすまない、続けよう」
駄々を捏ねる神楽ちゃんに優しく笑みを向けてから、僕にもにこりと微笑んで、桂さんは再び櫛を手に取った。
「リーダーの髪は、綺麗な色をしているな」
そっと櫛を通しながら、桂さんは深い声で神楽ちゃんに話しかける。
「マミィと同じ色ネ。私のマミィ、すごくキレイだったアル」
神楽ちゃんの口からするりと言葉が出る。そっか、きれいな人だったんだね。
「そうか。それは良いものを受け継いだな」
自然に応える桂さんに、神楽ちゃんの顔に笑みがこぼれた。
「うん」
うれしそうに目を閉じて、神楽ちゃんは鼻歌を歌い始める。
桂さんは柔らかな表情で、神楽ちゃんの髪を纏めていく。
「リーダー、ふたつ結びというのはなかなか難しいな」
右と左の髪の束の高さを合わせようと、桂さんは何度も位置を確かめている。
この人は、子供の髪を結うのにだって、こんなにも一生懸命だ。
「そうアルヨ。オンナのおしゃれはレベルが高いネ。しっかり修行するヨロシ」
「うむ、努力しよう」
真面目な顔で頷いて、丁寧な手つきで髪を束ね、ゆっくりと纏め、髪飾りを留める。
どうにか髪を整え終わると、神楽ちゃんは突然ばふりと桂さんの膝の上に倒れ込んだ。
「どうしたリーダー、少し疲れたか?」
優しい顔で覗き込む桂さん。
「ヅラァ、次は枕になる修行アル。しばらく膝を貸すネ。動いたらダメだかんな」
桂さんの膝を枕に、神楽ちゃんは目を閉じた。
その口元はゆるやかに笑んでいて、うれしそうな、しあわせそうな、そんな表情だ。
「枕になる修行だな。了解した、リーダー」
桂さんは腕を組み、真面目な顔で頷いた。枕になる修行ってどんなんだ、と突っ込もうかと思ったけど、どうやら動かないことがその第一らしい。
それじゃ桂さんがお茶を飲めないよ、と言いかけて、神楽ちゃんの寝息にその言葉をとめた。すごい早さ、のび太か。
「桂さん、お茶、冷えちゃいますよ」
僕はテーブルの湯呑みを取って、桂さんの隣に場所を移した。
「どうぞ」
神楽ちゃんもう寝てますから、と小声で湯呑みを差し出すと、少し考えてから桂さんはありがとう、とそれを受け取る。
こんな真隣に座るのはよく考えたら初めてかもしれない。何か、あたたかなやわらかな、そんな匂いが僕を包む。
同時になんだか安心な気持ちが身体に滲んできて、僕は小さくくぁ、とあくびをした。
「新八君は、良い子だな」
桂さんは前を向いたまま、深く優しい声で言葉を紡ぐ。
「...、え?」
「きっと、良い侍になる。」
特に根拠もなく、でも確信に満ちたその言い方。
僕の脳裏に、何かとてつもなく懐かしくあたたかい声が呼び起こされる。 ----きっと、良い侍になるわね。
......あ。
僕の記憶にある、唯一のその声、空気。
顔は覚えてないけれど、このあたたかく包まれる感じ、僕は、しってる。
「...母上...」
僕は知らずのうちにその言葉を口にしていた。涙が一筋、頬を伝う。
侍が泣くなんて、ちょっと情けないけど。
桂さんは前を向いたまま、何も言わずに、でもそこにいてくれるだけで僕はよかった。
「ただいまー、って、アレ?」
パチンコの戦利品を抱え、銀時は自宅の玄関を開けた。そこには見慣れた草履がちょこんと行儀よく揃えて置いてある。
「ヅラ、来てんの?」
だが家の中はしんと静まり返っている。
不審に思いながら、銀時はそろりと家の中へ入っていった。
「おーい。誰もいねーのかよ」
そう言って居間を覗きこむ。するとソファのほうからしーっという声がした。
「...なんだ。寝てんのか」
銀時の目に入ってきたのは、桂の膝にしがみつくようにして眠っている神楽と、桂の肩にもたれかかって寝息をたてている新八の姿。2人ともすうすうと安らかな表情を浮かべている。
「静かにしろ...子らが起きる」
子供たちに挟まれた桂が、小声で諌めるようにこちらを見る。
「ったくコイツら...そこ、銀さんの場所なんですけど」
やれやれと息をついて、銀時は向かい側のソファに腰を下ろした。肘をつき、その幸せそうな図を眺める。
「銀時、毛布があったらかけてやってくれ」
俺は見ての通り動けんからな。そう言う桂の表情は、銀時に対して向けられるものとは違った種類の優しさを帯びている。
それに少々嫉妬しつつ、座ったばかりの銀時は再度立ち上がり、押入れをごそごそとまさぐった。
「ほらよ」
広い毛布を1枚取り出し、ソファの背後に回って3人を包むようにばふりと掛けてやる。
ついでに桂が持ったままだった湯呑みを取り上げてやった。
「うむ」
小さく返事をして、桂はそっと腕を組み直す。
その顔はおだやかでやわらかで、こういうのを慈愛というんだろう。
「ヅラ、」
なぜかちょっと落ち着かない気持ちが湧き上がってきて、銀時は背後から衝動的に桂の顎を掴みこちらを向かせた。白い首筋が、しなやかに美しい。
「ん、」
そしてくいと粘膜を合わせる。子供達がいるから、合わせるだけ。
「でもこれは、俺のだかんね」
子供達に挟まれて動けない桂は銀時になされるまま、たっぷり数十秒、その口唇を奪われていた。
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