もしも自分が桂より年長であったなら、こんなふうに手をひいて、ずっと傍に置くことができたのだろうか。
いつもその背を追うのではなく、他の誰かに隣を取られることもなく。
高杉が古い隠れ家を訪れた夜、そこにいたのはひとりの幼い仔供だった。
初めはひどく戸惑ったが、その顔や物言い、仕草は、眩暈のするほど見覚えあるもので、次第にこれは桂なのだと認めざるを得なくなってくる。
本人の記憶はひどく混濁しており、自分が桂小太郎だということは認識しているがその他のことはおぼろげで、知能もこの年頃のものに退行しているようだった。
少し迷った後、自分の隠れ家に連れて帰ることにする。手をひいてやると、幼い桂は存外素直に付いて来た。
「たかすぎ」
記憶が混濁しているくせに、なぜかその名は覚えている。高杉の歩幅に合わせようとしているのか、小さな足で必死に歩きながら、桂はその隻眼を見上げた。
「おまえ、その左目は...?」
問うその表情は仔供ながらにひどく心配げで、高杉はふいに傷を負った当時のことを思い出す。
血、 雨、 叫び。 闇。 薄らと滲む、桂の泣き出しそうな顔。
「...別に。昨日今日の傷じゃねぇよ」
よぎった記憶を振り払うようにそっけなく言い、幼い手をひいて先を急ぐ。桂は懸命に足を動かしつつ、恐る恐る言葉を重ねた。
「いたむ、か...?」
「今さら。どうってことはねェ」
「そうか...、だが...」
やわらかな眉を悲しそうにしかめ、冷たい外気に息を白く吐きながら、桂は握られた小さな手にぎゅっと力を込めた。
高杉の隠れ家に着く頃には、月が夜空に高く上っていた。
冷えた部屋に明かりを灯し、暖を入れる。
歩き疲れたのだろうか、壁に寄り掛かった桂はこくりこくりと眠っていた。
そっと抱きかかえると小さな頭が胸元にもたれかかる。体温の高い仔供の吐息が、高杉の腕にふわりとかかった。
決定的に決裂した出来事は、まだ記憶に新しい。
心の奥底まで射抜くような視線は、今は幼い瞼に覆われ、安らかな寝息をたてている。
小さな手の中にそっと指を差し込むと、幼い掌が無意識にその指を包んだ。
ぐっすりと眠り込んでいる桂を手放すことができないまま、気付くと夜が明けていた。
一晩中仔供を抱いて座っているというのは、そう楽なことではない。蒲団にでも移せばよかったものを、なぜか離すのが躊躇われた。
自分の腕の中で安らかな寝息をたてている桂。いつも冷たい身体とは逆に、ほのかな温かさを帯びている。
頬は柔らかく染まっており、小さく開かれたくちびるがすうすうと規則的な呼吸を繰り返す。
ぷくりとしたそのくちびるに指先でそっと触れると、やわらかくあたたかく、幸せな手触りがした。
「んぅ...」
くちびるが小さく動き、高杉はその指を離してやる。
愛らしくやわらかな頬、無防備にあどけないその寝顔。
飽かず眺めているうちに、いつも心のどこかを占める黒く重い感情が、透き通る水面のように凪いでいく。
ふいに何かがたまらなくなり、気付くと高杉はその頬に口付けていた。
「熱いぞ。ゆっくり食え」
蕎麦をいっぱいに頬張って、小さな口がもぐもぐと動く。高杉が取り分けてやった椀を大事そうに抱え、幼い手には長すぎる箸をどうにか握りしめながら、桂は生真面目な表情で頷いた。
少食のくせに、口いっぱいに物を頬張るのは昔から変わっていない。
所作の一つ一つに映るありし日の面影は薄めていた何かをひどく掻き乱す。
高杉はどこか表情の抜けた眼で、目の前にある追憶をじっと見つめていた。
蕎麦屋の外は冬の陽射し、澄んだ空気に満ちている。
「...ほら。迷子になられたらめんどくせェからな」
笠を目深に被ってから、ぶっきらぼうに手を差し出す。すると小さな手が吸い付くように握りしめてきた。
「わかった。まいごになどならぬ」
見上げてまっすぐ返ってくる、素直で真面目なその答え。離すまいと握られたその手はやわらかく、高杉の中に温かな感触が広がった。
手を引いて、道端を歩く。
もしもこのまま永遠に、共に時を過ごせたら。
自分の傍に桂を置いて、片時も離さずに。
共に世界の壊れる様を見つめて。
有り得ない『もしも』に想いを取られていると、くいくいと袖を引っ張る動きに我に返らされた。
「おい、たかすぎ、たかすぎ」
小さな手で必死に呼びかけるその仕草。高杉は一呼吸置いてから言葉を返す。
「...あンだよ。どうした」
無関心な答えを意図したつもりが、しかし出た声はなぜか穏やかな音だった。
「たかすぎ、あれ、あれ」
袖を必死に引っ張りつつも、幼い桂の瞳はある店の一角に釘付けになっている。
「あれ、なんだ」
指差す先には、ワゴンに山積みにされた得体の知れないぬいぐるみ。桂は瞳をいっぱいに見開き、頬を染めて白いそれに見入っていた。
「たかすぎ、あれはなんだ。あれ、かわいい」
黒くくりくりとした眼が高杉を見上げる。ひょんと結ばれた髪のしっぽと相まって、その姿は仔リスか何かに例えられそうなほどに愛らしい。
「.........てめェ、それは、俺にアレを買えってことか?」
かわいいのはお前だろうがと一瞬思い、すぐにそれを打ち消してから、高杉は少し恐い顔で見返す。
「そうじゃない。かわいいといっているんだ」
「そうかよ。んじゃ行くぞ」
そう言って歩き出そうとすると、着物の裾を掴んだ手に止められる。
「...たかすぎ」
「何だよ」
「...あれ、かわいい」
「......」
「......」
しばらくの沈黙の後、高杉は大きく舌打ちをして店の中へ入っていった。
右手で骨ばった手を握りしめ、左腕には得体の知れない白いぬいぐるみを抱え、桂は頬を染めて歩く。顔は生真面目なままだが、その実すごく嬉しがっていることが高杉にはよく分かった。
表情の変化に乏しいのは昔から。それに見合わぬ内面の激しさも昔から。
甦ってくる記憶の数々を振り払うように、高杉は冬空を見上げる。
はらり、欠片がひとひら舞い落ちてきた。
「雪、か...」
はらり、はらり、はらり。
次第に増えていく白い欠片に、高杉は自分の笠を取り、幼い頭に乗せてやる。
それがひどく優しい仕草であるのを、自身では気付かないまま。
「あ...」
桂がふいに声を上げる。
「どうした?」
足を止めた桂に視線を向けると、桂はぬいぐるみを抱えた手で道端の木を指差した。
「みろ、たかすぎ。おおきなさくらの木だ」
無常の世を見つめるように立つ、太く大きな幹。花も葉もないその枝は、冬のもの哀しさを体現しているように高杉には見える。
「せんせいがみたら、きっとおよろこびになるな」
するりと出たその発言に、高杉はまじまじと桂を見つめた。
記憶が混濁した幼い意識の中で、世界は一体どのような姿をしているのだろうか。
師はとうに亡くなっている。侍はとうに滅んでいる。国はとうに腐っている。
この無垢な心に残酷な現実を突きつけてやったら、果たしてどうなるか。
「...枯れた桜を見て、何が嬉しい?」
湧き出した黒い靄を抑えるように、高杉は低く平坦な声で問う。
「たかすぎ、さくらはいいな」
桂は桜を見上げたまま、まっすぐな声でその名を呼ぶ。
「なんどでもさくんだ。どんなにちったとしても、はるには、また」
樹木を見つめる、黒くまっすぐな瞳。桜の生命力を見据えるその強い視線。
ふいに幼い日の記憶が、息もできぬほどの切なさで迫ってくる。
『しんすけ。さくらはまた、春がくればかならず咲く。だから泣かなくていいんだ、しんすけ』
甦ってくる声。還ってくる光。
それはまだ自分達がこの国の現実を知らなかった、最も幸福な時代。
桜の散るのがどうしようもなく哀しくて寂しくて泣いていた自分と、その手を力強く握りまっすぐな瞳で諭す桂。
自分のそばには桂がいて、桂のそばには自分がいて、
こんな未来が待っているなど考えもしなかった、あたたかくも遠い日々。
もう決して手の届かないぬくもり。
「...すぎ、たかすぎ」
名を呼ぶ声に、遠くなっていた意識が現実に引き戻された。
気付くと雪はその量を増し、はらはらと泣くように降り積もっていく。
「かぜひくぞ」
桂は必死に背伸びをし、高杉の着物にかかった雪を、小さな手で懸命に振り払おうとしていた。
「おまえはかぜをひくとひどいだろう。はやくかえろう」
自分の頭に乗せられた笠を取り、高杉に被せようとするが届かずに何度も飛び跳ねる。自分の肩に雪が重なっていくことには構わずに。
昔からこうだった、こいつは、いつも。
だが時はもう、戻ることはない。
「小太郎...、」
気付くと高杉は膝を付き、衝動的にその身体を抱き締めていた。口をついて出たのは遥か遠い日の呼び名。
ぱらり、笠が地面に落ちた。
「...たかすぎ?」
突然のことに驚いた桂が、それでも小さな腕でしっかりと、抱きつく身体を抱き締め返す。
「どこか、いたいのか...?」
幼い掌が頬を辿り、涙を拭う動きをする。その仕草に高杉は、自分が泣いていることを知った。
「いたむ、のか」
あたたかな指がそっと包帯をなぞる。
高杉は無言のまま、小さな肩に顔を埋めた。想いが堰を切るのを押し留めるように。
共に過ごした、暖かくも遠い幼き日々。戦渦に飛び込んで行き、生と死の狭間で極限を共有した十代。
仲間がばらばらになり、その中で二人想いを捨てきれず、胸の澱を吐き出すように続けた武力行為。
そして気がつくと離れていた、互いの道。
同じ怒りと哀しみが心に深く根ざしているはずなのに、目指すものは全く逆だった。
だが主義も思想も全て超えたところで、自分にはどうしようもなく、桂の存在が必要なのだとしたら。
ああ、じぶんはただずっと、こうして泣きたかっただけなのかもしれない。
その日の晩、桂は熱を出した。
外気の冷たさが幼い身体に酷だったのか、肉体の急激な変化が身体に負荷をかけていたのか。高熱に息を吐く小さな唇と上下する胸が痛々しい。
薬を飲ませようとしたが、嚥下が困難なのか、ひどく咳き込んで吐き出してしまう。
高杉は水と錠剤を己の口内に含み、赤く火照った桂の唇を親指で開いてやってから、そっとそこに口付けた。
ぴちゃ、水の漏れる音がして、こくりと小さな喉が鳴る。はぁ、と幼い喉が息をついた。
濡らした布で汗を拭ってやってから、抱き起こしていたその身体を横たえようとすると、小さな手が着物にしがみつい
ているのに気付く。
少し迷った後、高杉は桂がより楽な姿勢になるように抱き直し、毛布で包み、額を濡らした布で拭ってやった。
苦しげだった息が、少しだけ安らかになる。全身を高杉に包まれて、幼い桂の表情が、安心したように緩んだ。
どこかでずっと、自分が桂を欲するほどには桂は自分を欲していないと感じていた。
だが、もしも。
自分に桂が必要なように、桂もまた、どうしようもなく自分が必要なのだとしたら。
ふと浮かんだその思いを自嘲の笑みで振り払い、高杉は腕に抱いた桂を改めて見つめる。
自分に身体を預けている桂の、熱のせいで頬は赤く、吐く息の温度は高い。
額に張り付いた髪をそっと避けてやり、赤い頬を冷たい自分の手で包む。
再び遠い日のことが脳裏をよぎった。
幼い頃はよく熱を出していた自分、怒ったような心配そうな顔をしながらも夜通しそばにいた桂。高熱に朦朧とした意識の中、その手を一晩中握っていたのを覚えている。
熱く火照った小さな手に、高杉はそっと自分の掌を添えた。
深夜、熱が上がってきたのか、桂がうわ言を口にする。断片的にだが、せんせい、とか、しんすけ、とか、そういう単語が聞き取れた。
悲痛な声で途切れ途切れに紡がれる言葉を聞いていると、どうやら師が処刑された日の凄絶な記憶が、混濁した意識の中で幼い桂を圧倒しているようだった。
普段奥底に眠らせている苦しみや哀しみは、未成熟な心では統制する術がない。
うなされて壊れそうなほどに震える唇を、高杉は半ば無意識に己の唇で塞いだ。
「...小太郎、」
引き戻すように名を呼び、苦しみを和らげるようにその背を撫でてやる。だが次の瞬間、高杉はその手をはたと止めた。
そうだ。抱いている苦しみや憎しみは、全く同じものの筈。
なのになぜ、目指すものがこんなにも違ってしまったのか。
突然腹立たしさと哀しみが同じ大きさで高杉の脳裏を圧倒し、どうしようもなく黒い衝動が胸を突いた。
眠る桂をがばりと抱き込み、そのままきつくきつく抱き締める。
「っ、いた...!」
抱き締める力のあまりの強さに、目を覚ました桂の悲鳴が上がる。だが桂がもがけばもがくほど、締め付ける力は強さを増す。
たとえ壊れても構わない、ただただ苦しい想いが募り、もう他にどうすればよいのか分からない。
「っ、かっすぎ...!」
みし、細い腕が鳴った。圧迫されて息が苦しいのだろう、名を呼ぶ声は掠れている。だが高杉は離さない。
もがく身体を押さえ付け、まるで一つになることを願うようにひたすら強く抱き締める。
「っ...、」
息が出来ず朦朧としてくる桂の意識。もがく力が次第に弱くなっていく。
「しんすけ...」
ふいに零れた昔の呼び名。あまりに懐かしすぎるその響きに、高杉が一瞬怯む。
緩んだ腕の中、幼い桂はくったりと気を失った。
一度、言われたことがある。
『どんなに強く抱いたとしても、俺とお前は一つにはなれぬ』
知って、いた。
どんなに強く抱いたとしても、一つになどなれないことは。
だからこそこんなにも強く、自分は桂を欲しているのだ。
東の空が白み始めた頃、高杉はひとつの決心をした。
桂の熱は少し引き始めたようで、呼吸はだいぶ穏やかになっている。
高杉は額を濡らした布で拭ってから、その身体を暖かな衣で幾重にも包んでやった。
眠る桂を起こさぬようにそっと抱きかかえ、高杉は隠れ家を出る。
これ以上、一緒にいるわけにはいかなかった。
非力で無防備なこの仔供を、自分はきっと、壊してしまう。
最後にもう一度口づけてから、高杉はかぶき町の方へと向かった。