部屋の隅に立て掛けてある1本のギター。
フローリングに散らばった2種類の制服。
6弦を奏でるのと同じ指が、白い喉に震える吐息を。
「ン...っ」
とても恥ずかしいことをされているはずなのに、抗うのをためらわれるくらい、ごく自然に、当たり前のようにするすると触れてくる指。
「あ、...ぁ、っ」
与えられる感覚の強さから逃れたくても、後ろから回された腕は全く揺るがなくて、その指には、口唇には、何の躊躇も罪悪感もない。
「は、あぁ、あ、ふ...」
声が甘く熱くなっていくのを、さらに促し煽るように、長い指が巧みに動く。
「ンっぁ、も、やだっ、いぁ...っ」
強い快感に慣れず身悶える白い肩に、首筋に、なだめるように口付けを落として。
「俺に、委ねていろ」
麻薬のような、その言葉。
次こそ抵抗しようと思っているのに、気がつくといつも、この腕の中に落ちてしまう。
この指は、自分の知らない顔を、次々に見つけ出していくから。
Tuning n.p.
きゅ、きゅ、
泡を柔らかに絡ませたスポンジを、白い素肌の上に丁寧に滑らせる。
桂は身体をくったりと預け、されるがままになっていた。
きつい抱き方をするくせに、身体を洗う万斉の手はいつも丁寧でやさしい。
「流すぞ」
勢いを少し弱めたシャワーで、手を這わせながらいたわるようにそっと、桂の身体にまとわれた泡を洗い流していく。
やわらかな蒸気に包まれた、週末のひととき。
「......あ、」
大人しく身体を預けていた桂が、何かを思い出したように声を上げた。
「ん...?」
万斉は穏やかに聞き返す。いつもはきちんとセットされた髪が、濡れ乱れていて色っぽく、続きを促すその声は、静かで優しい。
「お前、待ってるときに煙草吸うのはやめろ」
「...別に、問題ないだろう」
急な話題にさらりと答え、腕の中の身体にシャワーをあててやりながら、甘やかに耳朶を食む。
「教室から見えたぞ...。先生に見つかったら、どうするんだ」
「他校生に関心のある教師などおらんよ。...だが、優等生をたぶらかす不良、とあらば話は別か?」
からかうような口調で、泡を流したばかりの肩に口付けを降らせていく。放課後、学校を一歩出た途端いつも大きなバイクに攫われていく桂を、担任や同級生が気にしていないはずはなかった。
「そういう問題じゃない」
少し怒ったように振り向くと、口唇を塞がれる。シャワーヘッドが床に落ち、流れる湯が蒸気を上げ、万斉の両腕が白い身体を閉じ込めた。
しばらく、シャワーの流れる音だけが浴室に響く。
「...心配、か?」
口内を優しく侵し、力の抜けた桂の身体を、そっと抱きしめ直して囁く。
「な、ちが...」
反論しかけるが、自分を見つめる眼がとても優しいのに気付いて、桂は小さくため息をついた。
「...とにかく、校門で煙草を吸うのはやめろ。不敵にもほどがある」
「お前が言うなら、そうしよう...。その代わりと言っては何だが、連れて行きたいところがある」
「何だ、それは...ずるいぞ」
「いいだろう?」
有無を言わせぬ調子で言われ、それで煙草をやめるのならと、桂はしぶしぶ頷いた。
服を着て、身なりを整えて。
背後からすいとつけられたのは、細い黒革が幾重にも巻かれた、ゴシックデザインのチョーカー。先端には大きめの十字架が吊るされている。
「...重い」
「だが、似合っている」
清廉な姿に、ひとかけらの危なさを。
桂を鏡の前に立たせ、自分の服装と合わせるように、きっちり締められた白シャツの首元のボタンを外し、大きく肌蹴させたそこからチョーカーを覗かせる。
シルバーと黒革の太いバングルを手首に嵌めてやり、腰には鎖のベルトをゆるめに巻いて、耳元にも細いシルバーチェーンを。
「たまには、こういうのもいいだろう」
桂の肩越しに鏡を覗き込み、出来上がった姿を満足そうに眺める。
黒い艶を纏ったような、気品と清らかさと危険さが同居した姿。万斉と2人並ぶと何かのグラビアのような迫力がある。
「嫌か?」
「......今日だけ、だぞ」
後ろから絡んでくる万斉の腕に、憮然とした表情で答える。
こんな姿、学校の連中が見たら何と言うだろうか。
桂は見慣れぬ己にやや戸惑いながら、鏡に映った自分ともう1人の男を不思議な気持ちで見つめた。
連れて来られたのは、酒の匂いと煙草の煙とけだるい熱気が充満した、いかがわしい雰囲気の店。
タトゥーも露わな若者達、奥の一角で演奏される騒がしい音楽、薄暗くも毒々しいライティング。
顔見知りが多いらしく、万斉は次から次へと声をかけられている。こんなところへ来るのは初めてで、桂は戸惑い半分好奇心半分できょろきょろと辺りを見回していた。
「離れるなよ」
知り合いへの挨拶もそこそこに、桂の腕を引き寄せて隅のカウンターへ連れて行く。
グラスを2つ注文し、万斉は隣に座らせた桂をしげしげと眺めた。
「...よく、来るのか?」
その視線が気恥ずかしくて、居心地の悪さを紛らわそうと口を開く。
「まあな。最近はご無沙汰だが」
「お前、高校生がこんなところに出入りしていいと...」
「こういうところは、嫌いか?」
「そういう問題じゃ、」
「一度、連れてきてみたかったんだ」
桂の頬に手を沿え、静かに笑む。
「お前は、こういう場所に置いてみても、きっと似合うと思ったから」
指を耳元から髪に挿し込んで、ゆっくりと梳く。その優しい動きに、桂はしかめた眉を少しだけ和らげた。
「...こんなことは、今日限り、だぞ」
「ああ...、分かってるさ」
「ほんとに分かってるんだろうな...?」
訝しげな声で万斉を睨む桂の顎をくいと引いて、人に見られぬよう素早く口唇を触れさせる。
「なっ...!」
ばっと顔を赤らめて身を引く桂を嬉しそうに見つめ、万斉は自分のグラスにすいと口をつけた。
桂が充満する酒の香気に少し眩暈を覚えてきた頃。
万斉に寄って来た男が、ステージを指して何かを話していた。先刻まで騒がしい音楽が演奏されていたそこは、今は空白になっている。万斉は軽く頷き、カウンターの椅子から立ち上がった。
「一曲、演らねばならぬようだ...。桂、ピアノを頼む」
グラスを置いて桂の腕を引き、当たり前のようにステージの方へ連れて行く。
「...え!?」
あまりに自然なその動きに一瞬流されかけ、桂は慌てて腕を掴む手を払った。
「な、何で俺まで」
「大丈夫だ。俺に、委ねていればいい」
「大丈夫って、何が大丈夫なんだ!」
ぶんぶんと首を振る桂に構わず、万斉はギターを手にとってチューニングを進めていく。
「おい、無茶だ」
「無茶ではないさ。曲は...そうだな、」
万斉が口にしたのは、桂がよく弾くクラシック曲の一つだった。だがそれはごく普通のピアノソロで、エレキギターとのセッションなんて聞いたこともない。
「お前は何も考えずに弾けばいいから」
「弾けばいいって...お前はどうするんだ」
少し拗ねた口調で、ギターを構えた万斉に疑問の視線を向ける。
「心配はいらん。合わせてみせるさ」
事も無げに言う万斉に、自分ばかり動揺しているのも悔しい。
桂はすいと姿勢を正し、色褪せたピアノに向き直った。
毒々しいスポットライト、漂う煙草の煙、えも言われぬ熱気。
先刻まで好き勝手に喋っていた客達が、ステージ上の万斉に気付き次第に注目していく。
空気を切り裂くように始まった、激しく華麗なギターソロ。
ピアノ曲の主題をアレンジした、冷静かつ技巧的な演奏。指は巧みに6弦を操り、そこから生まれる音色には少しの躊躇いもない。その音はまるで麻薬のように桂の身体を浸していった。
一呼吸置いて、万斉が桂に視線を流す。
桂はまるで操られているかのようにうつろな眼で、おもむろに指を動かし始めた。
いつもの演奏とは明らかに違う、桂の音色。ギターの巧みなリードに乗って、楽譜通りの正確な演奏しかしたことのない指が、次々と自由な音を生み出していく。
交わす視線、あがる呼吸。感じあうように絡む2つの旋律。
ギターが次第に速度をあげ、ピアノを攻め立てるようにリードする。
猟奇的な弦の電気音に捕らえられ、気高く硬い鍵盤が、熱く震えるような響きを帯びていく。
官能的な表情をした桂と、その色を巧みに引き出していく万斉の音色。
次第に熱に浮かされたように、激しく、狂おしく。どんどん速度を増して。
まるで身体を交わしているときのように、妖しく高く、艶めいて。
ぞくぞく、する。
そして、絶頂。
頂点に達したかのような、最後の一音。
一瞬の沈黙の後、湧き上がる歓声。
あまりに激しい演奏に、桂は朦朧とした表情で腕を降ろした。
肩で息をし、口唇を震わせたその様は、まるで達した後のように万斉の眼に映る。
「...桂」
そっと名を呼ばれ、桂は肩に置かれた手に引き戻されるように我に返った。
「大丈夫か」
「...あ、ああ...」
「もう、帰ろう」
息を切らせて見上げる桂の、肩をすいと抱き寄せて、万斉は群衆から保護するように桂を店の外へ連れ出した。
深夜の冷たい空気が、火照った身体をほどよく冷ます。
「楽し、かった...。お前、すごいな」
まだ頬を紅潮させている桂をバイクの後部座席に掛けさせて、万斉はその両肩を包むように抱いた。
「こういう世界も、あるのだぞ」
囁いて桂の上身をすいと引き寄せ、口唇の隙間に舌を挿し込む。
いつもよりきつく絡めてくるその舌に、桂は初めて自分からそっと、万斉の背に腕を回した。